三位一体の神のかたちは

「本質における一致、行動における自由、 あらゆることにおける信頼」ということばの意味を先日来ずっと思い巡らしています。教会の本質を言い当てたことばだという紹介をしましたが、それは三位一体の神ご自身のお姿そのものであるということに気が付いたのです。

 私たち人間は神のかたちに似せて、あるいは模して造られています。ですから、その互いの関係は、罪によって歪められているにしても、三位一体の神ご自身が本質的に持っておられる関係を映しています。三位一体の神はそれぞれに人格をもって、自ずから考え、決め、行動する自由を持っておられます。互いに束縛されることはありません。

 私たちが「自由」ということばを使うときそれは、自由奔放とか、勝手気ままとか、あるいは周りのことに気遣いなく無遠慮とか、あまりよい意味に使われません。

 あらゆることにおける信頼とはどのように築くことができるのでしょう。信頼とは漢字で言えば、頁を束ねるように、重ね重ねた交わりが、言葉として人の間に蓄積してできるものです。まして、永遠の三位一体の神の間にある信頼はどれほどまでに深いものでしょうか。だからこその自由なのです。そこには私たちが思い浮かべるようなネガティブな要素は一つもありません。なぜなら本質において常に自分よりも相手を重んじ、献げる愛において一致があるからです。

 エデンにおいて、最初の人アダムとエバは自由でした。また互いの間には深い信頼がありました。だから彼らは裸だったのです。そこには神のかたちとして本質において一愛に根ざす一致があったからです。イエスのご生涯の中に顕されている三位一体の神のみ姿を知ることを通して、私たちも神の素晴らしさを映し生きる喜びを見つけられるのです。