春から初夏の季節、先週、ようやく菜園を耕しました。記録を見ると、畑をお借りして5年目です。そして、例年、このゴールデンウィークの前には耕し、その前後で夏野菜の植え付けをしています。その前だと、遅霜にやられることがあったりするからです。それにしても、今年は例年より10日から2週間、季節の進みが早いとは皆口々に言います。
野菜の栽培には常に「適期」があります。種を買うと、種の袋には必ず「蒔き時」というのが記されています。それを外すと発芽すらしない場合も少なくありません。気温が低すぎて発芽しないもの、高すぎて発芽しないもの、それぞれです。また、受粉にも同じように「適期」があって、その時期を逃すと実が付かなかったりします。ですからすべての作業はその時期に合わせます。
同じようにすべてのことに時期と時があるとは伝道者の書の言葉です。無理にことをしようとしても、時が来るまでは進みはしないのです。ところが、私たちの時代、時の認識が自然の摂理を越えたところにリズムがおかしくなってはいないだろうかと思うのです。24時間、明かりがつき、冷暖房がつき、物が手に入り、食べ物だって、季節を越えます。「すぐ」が絶対善のようになって、「待つ」ということ、自分の手には余ることや委ねることができない驕りが強くなっているように思うのです。
みことばに心の思いを照らして、へりくだって生きることを、待つことと、それが与えられた感謝を心がけたいと思うのです
天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えた物を引き抜くのに時がある。
(伝道者の書3:1)