失うことの悲しみと痛みと希望

 火曜の朝、教会へ来ると何かがおかしい。花壇のクリスマスローズがないのです。それは、私の育った家の庭で母が大切に増やしたものをもらってきたものです。2年ごしに可憐な花を咲かせ、毎日楽しみに見ていたのです。それが株ごと盗まれてしまったのです。また植えればいいという問題ではありません。思い出や関係、時間と結びついたものだからです。
 今、津波で何もかも失った人たちの思いの中にも共通する「失うという思い」がきっとあるのだろうとかいま見る思いでした。その悲しみと痛みはいくら思いやっても、経験した者自身でしかわからないのです。
 主イエスの受難も、同じでした。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、絶たれること、失うことの悲しみと痛みでした。一方、父なる神の痛みはいかばかりだったでしょうか。「神、実にそのひとり子を賜いしほどに世を愛された」ということは、永遠からひとつであったその関係が絶たれるという、他には説明がしようがない悲しみと痛みです。主イエスのゲッセマネの祈りはその闘いだったのです。祈りのうちにそれを受け止めた大きな犠牲こそ神が人を愛する愛でした。
 一方、万物に力と権威を持っておられる神は自らそれの悲しみと痛みを受けつつ、よみがえられたのです。悲しみと痛みを通り、人の目には絶望しかないようなところに希望を与えてくださいました。私たち人間のどうにもなすすべがない悩みに、ただおひとり、ことを動かすことのおできになるのです。そして、その希望は永遠の慰めと喜びにつながる希望です。たとえ目の前は、暗く見えても、先が見えなくても、この主が導いてくださることを信じる信仰によって歩もうではありませんか。