先週、第一コリント13章の愛の章を一緒に読みました。私には、愛を語ることに「ためらい」があります。それは、いつも「語っている自分はどうなんだ」という問いかけを聞くからです。聖書を語って愛を語らずということはあり得ません。聖書そのものが神の愛のメッセージだからです。ですから、愛がない自分が愛を語る資格などないというジレンマを抱えながら、その務めのゆえに苦みを覚え、愛の負債を加えながら話しているのです。
後藤敏夫先生が同じジレンマを覚えながら次のように語っています。『教会や人間の関わりにおいて、愛が問題になるのは、そこにどうしても愛せない人がいるからです。愛について考えれば、結局は私にとって愛しにくい人を愛せるか、赦せない人を赦せるか、ということに行き着きます。さらに突き詰めれば、相手を大事にするために自分の身を危険にさらせるか、誰かのために自分の命を捨てられるかということまで行きます。』
そして続けます。『誰かを愛するという課題は、人に対する好き嫌いとか、気が合う合わない、あるいはその人を知っているか知らないか、そういうこととは関わりなく、私の助けを必要とする人として神様に差し出され、示されます。私たちは、それに対して、ただ「はい」と従うだけです。その意味で、愛するためには従順を学ばなければなりません。』
そして、その小さな一歩は、私たちが挨拶を交わすことにあると言います。でも、それすらしたくないような思いを持つこともあるのが私たちの罪深い現実です。かえって関係のない人の方が楽であったりします。しかし、たとえ、気乗りしないとしても、その小さな一歩は、愛を学ぶ一歩なのです。その一歩もまた十字架のイエス様を見上げることなしにはできません。私のうちにイエス様の愛が流れるように。その器としてイエスの愛の従順をこの身にと祈るのです。