陸前高田市の戸羽太市長の「被災地の本当の話をしよう」という最新刊を読みました。新聞やニュースで断片的に伝わる話よりも、一人の人の向き合っていることを読むことで現実のありようをかいま見、震災直後以来久しぶりに涙が溢れてしまいました。
彼は私と同世代、家族も同じです。市役所にいた彼はそこで罹災し、職員や近隣住民とともに屋上に逃げて間一髪助かります。津波が引いた翌明け方にすべてが消えた町を見て呆然とします。そこから、市長としてこの町のためにという使命感に押し出されて雪降る町を動き始めるのです。奥様の安否も、子どもたちの安否も押しとどめて、市長としての役割を果たそうと懸命でした。
しかし、彼は「私は人として間違っているのだろうか、父として何もしてやれなかった」という思いに大きな苦しみを覚えます。「お父さんだって泣きたい。」そのままにして守れなかった奥様の遺体に詫び、今も大きな喪失感と痛みを覚えながらも働いておられるのです。そのストーリーは涙なくして読むことはできません。
追い打ちをかけるのは何をしようにも、すべてが自由にならないという悔しさです。大手スーパーがいち早く仮設店舗でやろう、食糧を確保しますと行っても、その土地はまだ計画ができない。その土地は農地だからダメだ。国や県は人のいのちを何だと考えているのかという悔しさです。
国が守ってくれるというのは幻想です。ところが、誰かが守ってくれる、やってくれるという他人まかせの思いが私たちのどこかに隠れているのではないでしょうか。危機になったときにはそれでは遅いのです。
真に頼れる方、世界の造り主にして、いのちを生かしてくださる神にこそ委ね、また、私をお用いくださいと献げましょう。