指示待ちは何も生み出さない

 中井久夫「災害がほんとうに襲った時~阪神淡路大震災50日間の記録」みすず書房(インターネットで無償公開中)を読みました。震災時に精神科医として働いた記録です。
 『初期の修羅場を切り抜けおおせる大仕事において有効なことをなしえたものは、すべて自分でその時点での最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。「何ができるかを考えてそれをなせ」は災害時の一般原則である。たとえ錯誤であっても取り返しのつく錯誤ならばよい。後から咎められる恐れを抱かせるのは、士気の萎縮を招く効果しかない。治療がまさにそうではないか。指示を待った者は何事もなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。』
 『「ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない」のである。細かく情報を交換したり、現状を伝えたりする必要さえなかったのである。「彼は今きっとこうしているはずだ」と思ってたとえ当たらずとも遠からずであった。』
 これは今回の震災でも全く同じことが起こっています。一刻の猶予もゆるされない予断のならない状況の中では、責任感の伴う自発的行動と互いの信頼によってことはなされていくのです。
 震災という危急を要するときであったからそうであったかというと決してそうではないと思います。私たちの日頃の生き様が危急のときに問われるのです。まして、私たちキリストのからだである教会の日常において、求められることも同じではないでしょうか。
 「彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」2コリント8:3, 4
(牧師記)