救いの希望、復活!

 人は必ず死にます。穏やかな死もあれば、顔を歪めるような死がある。長い間の苦しみの末の死もあれば、突然の死もある。長寿を全うして迎える死もあれば、幼くして取り去られるいのちもある。自らいのちを絶たなければならないほど追い詰められることもあれば、死にたくても死にきれないこともある。疫病でいのちを落とすこともあれば、戦争の犠牲になる死もある。死さまざまです。
 誰にも例外なく訪れる死の受け止め方、それは、どのようにいのちを生きたのかと深く関わっています。この世のことだけで判断するならば、全く割に合いません。よいものを受けて生きた者とそうでないもの。生まれた時代とその状況、国や場所、立場、親、環境…。その違いはあまりに不条理、不公平なことばかりです。
 イエス様の十字架もそうでした。しかし、「あえて、自ら」十字架の死に向かい、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)と言われ、ご自身を身代わりに死に明け渡されたのです。それで終わりではなく、よみがえられた。復活です!死に打ち勝たれたということは、私たちの不条理、不公平、矛盾や痛みを乗り越える希望です。
 死は決して終わりではなく、復活のいのちの新しい希望です。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」(同22:3, 4 )という慰めといやし、希望と光の世界に迎え入れられる約束が私たちに与えられている。それを望みとし、今、どんなに闇が覆っても、この希望の光をしっかりと握りしめて歩むのです。