敗戦の日に祈る

 八百万の神々の国日本に生きる私たち、日本の神は氏神、先祖の霊を祀ることがその始まり、お盆の時期になれば、迎え火を焚き、送り火で送り出す。彼岸になれば「会いに行く」。また、国は天照大神から始まる万世一系の皇族とその臣民は一つであるという教えです。それは仏教伝来とともに神仏習合しましたが、明治期、近代国家に向かわせるために欧州国家に倣って立憲君主制を選び、そのため再び神仏分離し、天皇を王として祭り上げたのです。

 それはやがて天皇は現人神、我らその家族。だから天皇のため、お国のため、家族のため命さえ捨てる。それは別々のことではなく、一つのこと。一つの思想となりました。それが敗戦後、崩れながらもどこかで根底に横たわり、神も規範もない国になり、今があるのではないでしょうか。

 人が何かを一つにまとめ上げようとするとき、必ず偶像をつくります。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」あの、バベルの日から変わりはしません。一方でバラバラにまとまらないものをまとめ上げるとき、それに合わないものは排除されます。子どもの世界はある意味残酷です。セーブを知らないからです。いじめの現場にある排除は最も子どもたちが恐れていることです。

 そして今、敗戦から68年、まもなく70年を迎えようとしています。この国の行き詰まりは、神なき、思想なき時代の結果であると思うのです。震災をもってしても、原発のシビアアクシデントをもってしても、目が覚めはしません。神を信じる者たちが世にあって、神の平和を生きること。それこそが、私たちの使命であると思いを新たに、また一人一人の目が覚まされることを祈ります。