教会の悩みと信仰と

 先日訪問した父の従兄弟から自身の属するO教会の50周年記念誌、80周年記念誌を頂戴しました。送ってくださったのです。ザッと目を通しただけでも、そこには長老・執事として記録に名前がずっと刻まれていることがわかりました。80年余の労苦の中に主にお仕えし、いただいた恵みを分かち合いたいという思いを受け取りました。

 教会の始まりは昭和5年(1930年)、戦前から戦中、戦後、そして今に至るまでの歴史を刻んでいる教会です。そこには山あり、谷あり。戦時中は100名を数えた教会員が、次第に減り、牧師や若い男性は出征、教会員も疎開、教会近くに爆弾が落ちると、いよいよ礼拝は3名に。それが戦後はキリスト教ブーム。昭和22年には25名の受洗者が与えられます。しかし、それも一時のブーム。この中から信仰を持ち続ける人はごくわずかで、いつの間にか姿を消している人たち。

 それでも少しずつ前進しているかと思いきや、牧師を巡る混乱と辞任問題。新しい牧師を迎えて新会堂建築を志しますが、旧会堂を取り壊し、いざ契約支払いの段になって会計役員の使い込みが発覚。その後、建設委員長に立てられたのは、父の従兄弟の父(祖父の兄)でした。一歩間違えば教会が分裂するような中に、困難はむしろ献身と祈りを力づけたと記録が残っています。

 教会の営みは、罪人の集まりであるがゆえに、しばしば大きな悩みを通らされ、時代の波に翻弄されることも少なくないのは、歴史が物語っています。だからといって、言い逃れするのではなく、むしろ、そうであってもここにキリストがかしらとしておられる。どんなに揺り動かされたかに見えても、それが教会の教会たるゆえんであること。その御前に謙り仕えることの大切さ。その記念誌には励ましをいただきました。(つづく)