私たちは、みな時間と空間の中で日々を営んでいます。礼拝をささげるのは安息日であり、主の日です。安息日、それは「止める」ことを意味します。日常の時間を「止めて」造り主なる神を覚えるのです。それが復活の主を覚えて週の初めの日に変わり、新しいいのちに新たに生きることが加わりました。
旧約の民にとっての礼拝は幕屋であり、神殿でした。それは同じく日常の場から離れて聖なる場、それは「会見」の場であった訳です。神殿を失った捕囚の民以来、礼拝の場は会堂(シナゴーグ)に移り、みことばの朗読と賛美と祈りを献げる礼拝がささげられてきました。主の十字架と復活により、神殿の幕が裂け、礼拝の場はより「御霊と真理によって礼拝するとき」が来て、とりわけ異邦人をも教会に加えられ、それは家で、あるいは集会所でもたれるようになりました。いずれにせよ、それは時間と空間を主と兄姉とともにする場でした。そして、コロナ以前、私たちもそれに続く礼拝をしてきたのです。それがコロナからオンラインというものが加わって、新たなスタイルが始まりました。
そしてもう一つ「関係」というものが大切な要素としてあろうと思います。それは「教会の交わり」という関係です。主の祈り、それはすべて「私たち」ということばでの祈りです。「私」ではありません。主イエス様はペテロに「この岩の上にわたしの教会を建てます。(ヨハネ16:18)」と仰り、バラバラだった弟子たちが信仰告白の上に一つ教会に集められることを教えました。そして、とりわけ兄弟愛に生きるべきことが繰り返し教えられています。ですから、教会は一つパンと杯にあずかり、主にある神の家族である兄弟姉妹とともに礼拝をささげ、ともに生きる恵みを分かち合う関係なのです。
これを離れての信仰生活はどこか歪んできます。時間を取り分け、場所と関係をともにする礼拝をささげていきましょう。