牧師を育てる、牧師が育つ

 一年間よい交わりをいただいた伊東神学生を送り出しました。牧師の務めとは何でしょうか。若い牧師も牧師であり、経験を重ねた牧師も牧師です。改めて考えてみましょう。

 牧師の務めに「牧会」ということばが使われます。羊飼いが羊の世話をし、導き、育てるように教会を導く務めをするのに用いられたことばです。しかし、その意味するところは、それぞれの願いや期待を背負うところがあって曖昧です。

 牧師がなすべき委ねられている第一の務めはなんでしょうか。それはみことばを取り次ぐという奉仕です。使徒の働きの6章には共同生活をしていた初代教会が食べ物の配給のことで不平が起こったとき、「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません」と7人の執事を選びました。いわば教会の役員です。そして使徒たちは「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにし」ました。そう、神の教会の生命線はみことばであり、牧師の主たる務めはみことばの奉仕です。

 一方で、それはたやすいことではありません。「叙述ではなく告白、学問でなく研修」神学校で語り継がれていることばです。神のことばを空文にするようなことがあってはいけない。生きた神のことばに自ら生き、畏れをもって私たちの毎日に生きるように伝えることこそ、委ねられた務めであるからです。

 新米牧師はその点で拙さがあります。またどこまでいっても完成などありません。それはとうていひとりでできるものではないのです。それを成り立たせるのは、モーセの手を支え続けたアロンとフルのように、ともに主の前に出る者に支えられてのみ許される奉仕です。新しい牧師のため、いや全ての牧師の奉仕が神の御前にともに神の声を聞くものであるように祈りましょう。