球が走った、球が切れる

 先週、五味姉の企画でボーリング大会が行われました。考えてみるとイースターと何の関係もありません。でも、主にある兄弟姉妹が楽しみをともにすること、それもまた、神の家族としてよいことだなぁと思うのです。教会は勉強会でもなく、奉仕団体でもなく、いのちの恵みをともに生きる共同体なのですから。

 さて、その球です。不思議なもので、上手な人は、球に勢いがあります。そして、なにやらカーブを描きながら、いい音を響かせてピンを倒します。球は転がっているというよりは、レーンの上を滑っているように見えます。そういうとき、球が走ったとか、いい切れだとか、そういう言葉を使います。主語は投げた人ではなく球です。そして、これまた不思議なことに、その後、何が起こるかは最後の最後まで分かりません。自分の手を離れたら、球に任せるしかないのです。

 全部コントロールできたら、すべてストライク!でもできない。そんなことを考えていると、私たちのすることって、そんなことが少なくないなぁと思うのです。精一杯尽くしてことをします。でも、一度手を離れたら、それが切れよくいくのか、走るのか、スペアを見事にとる球になるのか、ガーターになるのか。まぐれのストライクか、次こそはと狙いながらも思い通りにはいきません。

 でも、ゲームだからと後腐れなく、次はうまくいけばいいなぁと気持ち引きずったりはしません。ところが、現実の前には、落ち込んだり、いっぽ踏み出せなかったり、手を離れた球を追いかけ回したりするのが私たちです。精一杯投げ、手を離れたら、あとは委ね任せる。失敗したらスペアを取ろう。それでもダメなら次を待とう。そんな生き方を主にあってできたらと思ったのです。神の賜物を喜び、くよくよせず、前向きに(伝5:20)。