先週の長野山梨区域の聖会、K先生が大変分かりやすく、私たちが陥ってしまう教会の生活習慣病についてお話くださいました。生活習慣病というのは、今すぐ命に関わるような問題ではありません。どこかちょっと調子が悪いなぁとか、疲れがとれない、だるいなぁとか、そう感じているところ、あるいは感じもしないけれどどこかに不調をきたす恐れのあるところです。こんな話をしてくださいました。
「交わり欠乏型視野狭窄症」。自分のこと、自分の教会のことしか考えられなくなってしまうとき、交わりが閉じて広がらない。
「一過性栄光閉塞障害」。昔はよかった。そこにしがみついて、昔のやり方を引き継ぐだけで、今なすべきことを見ることができない。そういうことが起こります。
「平安中毒」。とにかく平安ではないと気が済まない。いいことも悪いことも起こらない、変化がないことを望み、面倒なこと、新しいことへのチャレンジができないこと。
「御恵み依存症」。牧師ならなんとかしてくれる。何かしてもらわないとガマンができない。逆もあります。
「奉仕性高血圧症」。何か自分がやっていないとガマンができない。誰の賜物が一番なのか。この世の競争原理が教会の中に入り込んでしまう。
「希望欠乏症」。今がすべて。刹那的な信仰生活をし、忍耐ということばに欠ける。
「ウイルス性無責任」。誰が責任者、どの会が責任。これは、次々に移ってしまう。
これは、あの人この人の問題ではありません。みんながかかる病気です。
教会にとっては、水の上にパンを投げるように、ムダと思えるようなこと、後に恵みを見いだすようになる(伝道者の書11章)。それを希望に献げていきたいと願うのです。