ドラッグストアのレジで、前で会計をしている女性と店員さんが、共感して慰め合っていました。二人とも同じように左手の指を怪我して包帯巻いているのです。何かに挟んで怪我をしたらしいのですが、「やっぱり左?」「そうそう、右手でドア締めて…」、「わかる、わかる」、「今日はよかった、気持ち通じる人に会えて」、こんな会話をしていました。「そうそう、右手は道具持ってるから怪我しない。押さえている左手を怪我するんだよな」と心の中でしゃべりながら、微笑ましくその会話を聞いていました。
能登半島地震、壊滅的な被害に遭った人たちにどのように慰めを与えられるだろうかと考えます。ウクライナやガザの戦争もそうです。東日本大震災の時とは少し違います。あの時には誰もが恐れや不安を抱えていました。直接の被害の大小にかかわらず、みな痛みの経験をしたからです。どうにかしないではいられない思いをみな持っていました。
私たちには限りがあります。あれもこれもとすべてのことに関わることはできません。自分の持ち場があって、あるいは時間も心も持てるものにも限りがあります。多くはその関わりの度合いに応じてということになりましょう。どこかで境界線を引いて、ここまでならできると考えるでしょう。
真の慰め主はキリストにこそあることを私たちは知っています。「悲しみの人で、病を知っていた」(イザヤ53:3)とあるように、神であられるお方がこの地上に来られ、同じように痛みを知っておられる。これより大きな慰めはありません。それが、その地の人たちにも与えられるようにという祈りがとりなすべき祈りです。そして、サマリヤ人のたとえ話の最後に「あなたも行って同じようにしなさ。」(ルカ10:37)と言われる主イエス様のおことばに従い、自分のできることをと献げる。それは痛みを少しでも分け合い、慰めとなるため。その心を持ちたいものです。