痛みを覚えるとき

 木曜日の午後、「あれっ」と思ったら傷みで肩が上がらない。物を持つのにも痛く、左腕が使えない。ドアを開けるにも、小さなカバンを持つことすら痛く辛い。一番不便なのは、クルマのシートベルトに手が回せない。痛いのはどうにもなりません。いわゆる五十肩です。そういえば、四十肩というのもやりました。その時には、肩甲骨の辺りが、突然激しい痛みが襲いました。

 痛みは慣れるものでもなく、どうにか過ごせるものでもなく、過ぎ去るのを待つしかない辛いものです。フィジカルな痛みはまた、メンタルにも影響を及ぼします。痛みは人の顔を歪めて表情を暗くし、気持ちも前向きにはなれません。いつこの痛みから解放されるのか、再びもとのようになれるのだろうか。いや、もっと悪くなったらどうしよう。そんな不安が心を覆ってしまします。

 パウロは「肉体のとげ」を取ってくださるようにと三度祈った(2コリント12:7-8)とあります。それがどんなとげであったのかわかりません。三度というのは、ゲッセマネの祈りもそうですが、「熱心に」あるいは「十分に」祈ったということでしょう。そして、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われた主のことばに励ましをいただきました。

 強いとき、私たちは頼ることをしません。そして、そうではないはずなのに、すべてコントロールできると思ってしまいます。しかし、どうにもならないとき、痛みがあるとき支えが必要なのです。胃カメラを初めてしたとき、看護師さんの背中をさする手が何とありがたかったことか。どうにもならない痛みを覚えるとき、弱さを覚えるとき、支え手くださる主の手の、兄姉の手の慰めをただただ感謝する歩みをしたいものです。