このコロナ禍、改めて覚えさせられているのは、私たちの視野がどこにまで向いているのかということです。私たちの日常生活は、通常ごく限られた範囲で暮らしています。特にこのコロナの中、1日に会話を交わす人の数は一桁くらいの人がほとんどではないでしょうか。いや、数人ということも少なくありません。せめて、関心を払う範囲はせめて日本の国内のことくらいです。
一方で、世界に目を転じれば、同じコロナでもその状況は全く違います。しばらく前は欧米の状況がかなり厳しいものでしたが、ワクチン接種が拡がって和らいできました。今、感染爆発しているのがインドです。1日の感染者数が40万人に迫る勢いで、累計では2,335万人が感染しました。医療が逼迫どころではなく、いのちの選択をしなければならない現場は、どんなにか辛いことでしょう。そして、世界全体では1.6億人が感染し、332万人(5/13現在)が亡くなっています。
その状況についてどれだけの関心を払っているかといえば、やっぱり、自分は、そして自分の周りは大丈夫かというレベルです。それは、その場の生の声を聞く機会がないからでしょう。そこに自分の家族がいたなら、親しい友人がいたなら、心締め付けられる思いに迫られることであろうと思います。
私が礼拝の祈祷のとき、「この町、この国、この世界」と祈ることに気付いておられるでしょうか。私たちの視野は狭いけれど、祈りの中で、今、共にこの世界の一員として私が生かされ置かれている。ならば、私の果たすべき役割はなんだろうかといつも問い続けることが大切なことであると思うのです。主にとりなすこと。きっと、かの地でも切実な思いで祈っておられる見たことも会ったこともないけれど、主にあっての神の家族がおられる。どう祈っていいのかもわからないのですが、主に願う。それをさせていただきたいと思うのです。