立ちなさい、さあ、行こう

 「立ちなさい。さあ、行こう」とは、マタイ26:46に出てくる、イエスの言葉です。この直前、イエスはゲッセマネの園で祈りをしていました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

 その祈りは、自分を捨てる祈りでした。それは多くの苦しみを意味します。裏切られ、捕らえられ、裁判にかけられ、嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられることです。すべてが痛みであり、すべてが苦しみです。どんなことでもおできになるイエスです。病を癒やし、悪霊を追い出し、嵐を鎮め、ラザロをよみがえらせるお方です。その力を捨て、すべてを明け渡さなければなりません。そして何よりも、死に自分を明け渡すことは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばずにはいられない。永遠からお一つであった父なる神から絶たれるという大きな大きな悲しみを受けなければならないことを意味しました。

 しかし、祈りのうちにすべてを明け渡したイエスは、「立ちなさい。さあ、行こう」と言われます。それは強いられたのではなく、自ら父のみこころを選び取り、自らを捨てる決意を固められたしるしの言葉です。罪人を救うため、身代わりのいのちを差し出すために進み行かれたのです。

 それが受難の始まりでした。そしてそれはイエスご自身の選択でした。どんなことでもできるお方が、私たちの救いのためにすべてを捨てたのです。それがイエスの大きな愛です。愛するために必要なこと、それは自分を捨てて差し出すことです。誰かに求められたからでもなく、強いられてでもありません。その愛を私たちは受けているのです。

 受難週を過ごす中、そのことに思いを巡らせてみましょう。何のために苦しみを受けられたのか。何のために十字架を忍ばれたのか。イエスの愛の深さをかみしめましょう。