「遊び」ということを考えさせられています。コロナになって、一緒に「遊ぶ」という機会がほとんどなくなりました。最小限の人との接触。礼拝も一緒におささげしたらほどなく散会です。これまで、おしゃべりをしたり、愛餐をともにしたり、「遊び」の時間がありました。今、その機会がほとんどありません。やっぱり顔と顔を合わせたところでないと遊びは生まれにくく、そして、遊びのない生活には疲れがでてきます。
最小限で効率がいい!かもしれません。しかし、遊びのない機械はありません。キツキツのものは動きが悪く、ムリに動かそうとすると壊れてしまいます。一方で遊びが大きすぎても今度は暴れて壊れてしまいます。ほどよい「遊び」が実に大切です。人は機械ではありませんがその点においては同じで、なんでも効率よく動けば、ことが進むかといえばそうではなく、遊びが必要です。いや、ことが進むかどうかよりも大切なことがあります。
一方で、遊びが大きすぎるとそれはまたダラダラとしてしまいます。適度なハリが必要です。コロナの中、その遊びとハリを保っていくのが実に難しい。みな悩んでいます。「不要不急」ということばを何度となく聞いています。義理や付き合いでやっていたことなどは、この後もみなやらなくなるでしょう。本当に必要なことは吟味されます。そこで遊びは不要かと言えば、そうではなく、私たちのいのちに必要です。
笑い、楽しみ、ワクワクすること、それはみんな遊びです。そして、それを一緒に分かち合うことのなんと大切なことか。人間というもの、失ってみてしかわからないものです。教会が神の家族として、よきものを分かち合える日、その日を心待ちにしています。
「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになっともに生きることは。」詩篇133:1