聖餐、それは十字架の贖いを確信もって告白する象徴であること、また、キリストとの交わり、聖徒の交わりに加えられる恵みであることをお話ししました。今度は、聖餐を受ける心得です。
「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。 」1コリント11:27-31
これがコリントの教会に向けて書かれたの警告のことばです。「ふさわしくない仕方」とは何でしょうか。十字架の血潮の恵みを軽んじ、それにふさわしくないようなあり方のことです。コリントの教会で言えば分裂、分派、不品行、あるいは「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」(同5:11)のことです。自らのあり方を吟味し、キリストの血潮にふさわしいかを問い直せと勧めているのです。
だれが、それを確認するのでしょうか。ともに集まる聖餐式では、司式者があるいは配餐者がその確認をします。とはいえ、心の中のことまで見えるわけではありませんから、バプテスマ、あるいは戒規に触れていないかの確認です。「自らの吟味」ということが大切です。ふさわしからざるとき、人の目は通り抜けても、神の目にはすべてが露わなのだということをよくよくわきまえるようにという厳しい教えです。一方で、悔い改めて御前に出る者は、すべてが赦しと恵みです。罪人の私が赦された。その確信を深めましょう。