違いがあってもいい

 コロナの感染が劇的に抑えられ、感謝なことにここ2週間ほど県内の感染者ゼロです。これが一時的なもので第6波がくるのかこないのか、様子見の状態がこれからしばらく続くでしょう。こうなると一人一人が様々な対応と思いを感じるようになります。何かをしようというときに、気にせず出ていく人と慎重に控える人、その中間、ためらいながらもみんなの目を気にして本心は控えたいけど合わせる人、みんなに合わせたいけど、控えるので後ろめたいと感じる人。そのようなグラデーションがでてきます。
 そして互いの間でも「どうしてあの人出てこないんだ」いう有言無言の圧力や、それが不信仰だと言うさばき合い、逆にそのような圧力やさばきに対して愛がないと責める思いなどが起こりやすいのです。そして、私たちはそんな交わりに幻滅します。それは実のところコロナだからではなく、日常の中にも隠れて見えないだけでよくあることなのです。
 「ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。…こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。」(ローマ14:1-13抜粋)
 このみことばが問いかけるのは、そんな違いをもった私たちがどのように一致を保って神の御前にふさわしい交わりを築くのかという問いです。そこでは「神がその人を受け入れてくださったのです」ということばが鍵です。誰もが自分を基準にものごとを判断するのではなく、神の視点で考えるべきだということです。十字架でいのちを捨てるほどに愛してくださった一人一人。違いはあっていい。わきまえておきたいと思います。