避暑地・観光地として知られる軽井沢町。人口18,000人の町ですが、約15の教会があります。軽井沢の始まりは明治19(1886)年、カナダj人聖公会のA.C.ショー宣教師が最初に軽井沢を避暑地としました。欧米の宣教師たち、彼らの中には日本の高温多湿の夏に弱い人たちがいました。また、彼らの文化習慣の中にはバカンスがあり、働きのためにはどうしても必要なものだったのです。
もともと軽井沢は中山道の宿場町、追分宿として栄えたところです。ところが明治期になると往来が減り、衰退していきます。折しも1892年に碓井峠に鉄道が通ります。かつては勾配がきつく、歯車で駆動するアプト式で知られた峠は、長野新幹線の開業とともに廃線になりましたが、それを通って人々は軽井沢に往き来したのです。
さて、宣教師たちに愛された軽井沢には、日本語学校などがつくられ、そこで学んだ宣教師たちが日本の各地に派遣されていきました。私たちと関わりのあるTEAM宣教団も戦後、軽井沢に日本語学校を建て、ほとんどの宣教師たちはここで日本語を学んで各地での働きに散っていきました。他のJEMA(日本福音宣教師会)の宣教団もそこに合流したりあるいは保養施設を設けたりし、ここを霊的な静まり、体の調整をし、宣教の働きに従事したのです。
いわば、日本のキリスト教会にとって、軽井沢とは宣教の働きのために福音を伝えてくれた宣教師たちの霊的前進基地、あるいは野戦病院とでも言うような場所なのです。ここで彼らは体の疲れをいやし、力を失い、疲れを覚えたときの祈りの場所とし、みことばに立ち返り、互いに励まし合って再び立ち上がる経験を何度も何度もいただいたそういう場です。涙と祈りのふるさと軽井沢。そんな目で見てみると、違ったものが見えますね。