コロナの感染の拡大が続き、病院の受け入れ体勢が逼迫しています。すでに救急車の搬送先が見つからない。本来、入院するべきところを待機し、自宅で亡くなる方が出てきている。そういう話も聞きます。そして、しばらくの間、そのような事態が続くでしょう。今週、朝日新聞の記事、長崎大熱帯医学研究所の山本太郎教授の記事に目が留まりました。氏は言います。コロナとの戦いは短距離なのかマラソンなのか、そして今どの辺りを走っているのか全くわからずみなコロナ疲れをしている。どのような終息のシナリオを目指すのか。政府は科学的知見に基づいた目標を示すべきだと。
そしてもう一つは、「二つの物語が進んでいます。一つはウイルスとの共生、社会経済との両立、集団免疫の獲得という大きな物語。もう一つは個別の物語。たとえば『祖母が感染して亡くなった』というものです。社会全体からみれば10万人に1人の死でも、家族にとれば大切な一人。起きた人には1分の1。医師としては、個別の物語に寄り添いたいとの思いをもちつつ、大きな物語を意識せざるをえない。」
数字の持つマジックとでも言うべきものがあることに気がつかされました。私たちは身近に罹患して苦しんだ人を実際に見ていないと、感染者数という数字に囚われます。そして、その数字の多さに気をとられてしまうのですが、数字には人格がありません。その背後には、1分の1という命の重みがあることを覚えておきたいと思うのです。
そして、神の目には「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15:4)とイエス様が言われるように、私たち一人一人に目を留めていてくださる。そのまなざしを大切にしたいと思います。