「なんというタイミング」創世記37:12-35

 なんというタイミングでしょうか。彼らにイシュマエル人の隊商が通りかかるタイミングは不思議です。シェケムで兄たちを見つけていたら、こうはなりません。ドタンにいるという話を聞かなければ、別の場所に探しに行くか、あるいは父のもとに帰ったかもしれません。少しでもズレていたら、ヨセフがエジプトに売られることはなかったでしょう。
 そこに居合わせなかったのがルベンです。彼はヨセフを助けて父のもとに連れ戻そうとしていました。ところが、目を離した隙に兄弟たちがヨセフを売ってしまったのです。しかし、彼は嘆きはすれど、何もしません。そして、彼らは父にウソをつきます。そして、一方で悲しむ父を慰めるのです。この様子を見て平気でいられるのでしょうか。あるいは兄弟間で口裏合わせていて、兄弟を裏切るわけにはいかないという闇の結束でしょうか。
 兄弟たちは父親の悲しみを見て、あれはやり過ぎたと悔い改め、エジプトに探しに行くことだってできたはずです。しかし、彼らはウソをつき通します。父はことある毎に嘆き続けたことでしょう。その度、その度ごとに彼らは負い目を加えます。臭いものには蓋をするように、感情を押し殺すことは簡単なことではありません。ことに触れないようにすればするほど、折り重なっていく負い目は大きくなります。それは兄弟の中で、親子の中で、家族の中で、折りに触れては思い出される苦い負い目です。
 すべては摂理のうちにことが導かれていくのです。やがてすべてが変えられる日がきます。負い目が和解と赦しに変えられる日がきます。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書3:11)とあるように、神が備えてくださる時に変えられる日がくることを待ち望みながら、主の御前に歩んでいこうではありませんか。