この時代の盲人、それは働くこともできず、物乞いをするしか生きる術がありませんでした。エリコは過越の祭を前にエルサレムに向かう巡礼の旅の最後の宿場になったところです。そこから出たところ、一番人通りの多い場所にいた彼は、イエスの来られることを聞いて叫び声をあげます。
私たちが叫ぶとき、それは助けを呼ぶときです。自分でどうにかできる人は叫びません。この10章のはじめに出てきた富める若人、彼は叫ぶどころか、捨てなければならない自ら頼るものがありました。もう一つ、彼にとってはこれが最後の機会であったでしょう。これを逃したら、その時はこないかもしれない。そのような叫びが神の前に求められているのです。
その彼を「心配しないでよい…」とイエスの呼ぶ声に周りの人たちが声を掛けます。その声に促されて、彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスのもとに行きます。上着は彼の唯一の財産でした。身を守り、あるいはわずかな持ち物を包む。それを脱ぎ捨てとわざわざ書かれているのは、イエスの招きに従ってすべてをそれに委ねることを意味します。目を開けられた彼は、「道を進むイエスについて行った」のです。
イエスにいやしをいただいた人の多くは無名です。バルティマイという名が記されているのは、彼がイエスに従い、その後も弟子の一団にいたからでしょう。ついて行った先で彼はこの後、イエスの十字架、復活の目撃者となったのです。開かれた目で彼が見たのは、主イエスのみわざと救いです。彼が開かれた目は、からだの目だけではなく、霊の目を開かれて、イエスの救いにあずかりました。
それは、信仰に必要なことを教えています。自分ではままならぬことを認め、すべてをイエスに委ね、イエスについていくことです。そのとき、霊の目を開かれてイエスの恵みにあずかることができるのです。