「仕えること、与えること」マルコ10:32-45

 マルコの福音書は9章の変貌山の出来事、神の栄光を垣間見ることを境に受難、十字架へと向かいます。10章のはじめには神の国に入る条件、子どものように恵みを受けること、そして、目に見える頼りを捨てて従う者に与えられる祝福を学びました。この箇所では神の国を生きる生き方、「仕えること、与えること」を教えています。
 エルサレムに入る直前、イエスの姿に弟子たちも人々も驚きます。彼らの期待は、ユダヤの再興です。政治的メシヤです。しかし、そんなそぶりはなく、むしろここで受難の予告をするのです。ユダヤ人指導者から異邦人に引き渡され、異邦人はイエスを嘲弄して十字架で殺されると。それは弟子たちの願っていた姿とは大きく異なるのです。
 しかし、弟子たちはイエスの言葉を理解せずに、イエスが栄光の座に付かれるときには、ひとりを右に、一人を左にと身勝手に願い出ます。イエスは「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか」と尋ね、弟子たちは「できます」と答えますが、それはゲッセマネの園で決死の祈りの闘いをした、受難を意味するのです。今の弟子たちにはわからないことです。
 そして、ここに神の国を生きる者の生き方を教えます。支配者は、横柄に、そして、権力を振るいます。立身出世を掲げてそれをなすと、人は志などなくして思いのまま振る舞うのは世の常です。しかし、あなたがた、私に従う者は仕える者に、しもべになりなさいとイエスは言われるのです。高ぶりやすい人の心に、イエスは、ご自分が来られたその意味と目的について教えます。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」これをいつも目の前に置いて生きること。これこそ、神の国の生き方なのです。