ここには「こういうわけですから」ということばがでてきます。このような論理の展開をする接続詞は大切です。これからの話の前提があるからです。私たちは、罪の赦しを受け、よみがえりのいのちにあずかって新しいいのちをいただいた。そういうあなたがたですからという意味です。そして、ここから、キリストにある者の新しい生き方について教え始めます。
「食べ物と飲み物について…」と続くのはいまだに私たちを縛る律法とそれを形ばかり守ろうとするユダヤ人のことです。人間はきまりを作るとそれに縛られ、大切なことを忘れてしまうのです。そして、人をさばき、人を責め、自分はちゃんとやっていると誇りを持つようになる。「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めはよいことのように見えますが、それは私は正しい、私はやっている、と誇りを満足させるだけで何の価値もないのです。
「自己卑下や御使い礼拝…」と続くのは、体験と刺激です。キリストでは不十分でこれもあれも、別のことばで言えば、心盛り上げるような何かという人たちがでてくるのです。もっと盛り上げ、もっと、もっとと求める心は神から出るものではありません。パウロはここで「かしらにしっかり結びつくことをしません」と言います。体験至上主義は、盛り上がったかどうか、人が集まった、集まらない、そういうことだけで事を評価するような心が私たちの中に起こってくるのです。
大切なのは「このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくこと」です。先に学んだピレモン書のストーリーはコロサイ書と深く関わりがあります。逃亡奴隷オネシモと主人ピレモン、彼らがキリストをかしらとするからだの一部として、奴隷と主人という関係を乗り越えていくのも、その一つです。惑わすものを斥け、かしらにしっかり結びつく歩みをしようではありませんか。