ダビデの人口調査、それが罪とされ、イスラエルのうち7万人が打たれます。「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり」は、平行箇所のIIサムエルでは「再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり」とあります。それはダビデの罪と重ねて民の罪もここで一緒に扱われたのです。
それは民が王を欲したところから始まります。士師の時代、彼らは周辺諸国に苦しめられます。「王がいれば強くなれる」と彼らは思ったのです。主に従うことよりも見える力を求めたのです。王制という制度ができると経済力や軍事力などに頼り、主により頼むことを忘れます。王自身も謙遜に始まったはずが、権力を手にすると過ちに陥るのです。そして、ダビデは人口を数えることから来るプライドや高慢あるいは自己満足を求めたのでしょう。しかも側近ヨアブの言葉をも無視して。エペソ6章にあるように、私たちの戦いは背後に霊的な戦いがあるのです。
主はさばきを下します。これはあらかじめ主から逸れた時に下ると言われていた「戦、疫病、ききん(自然災害)」の一つです。主の使いが抜き身の剣を向けているのをダビデと長老たちは見ます。それは、御前に恐れを覚えるためです。さばきは結果としての罰であるより、それを見た者が恐れを取り戻して主に立ち返るためです。
そして、最後にダビデは祭壇のためにオルナンの打ち場を買い、いけにえを献げます。それはかつてアブラハムがイサクを献げたモリヤの山であり、後にソロモンが神殿を建て、さらには、主イエス様がご自分の神殿、つまり命を十字架にささげて私たちの贖いとなってくださった場所です。さばきと救いが同時に行われたのです。私たちが問われるのは神の御前への恐れです。そして同時に悔い改めと贖いによる救いが与えらる。救いの厳粛さの前に身を正して主に従いましょう。