イスラエルと終末

 今、イスラエルとハマスの戦争状態が続き連日ニュースを賑わしています。ウクライナ戦争も止まぬ中、背後にあるイランやサウジアラビアという中東の諸国とイスラエルを支援する米国、そのさらに背後にうごめくロシアや中国など世界大の戦争へとエスカレーションしないようにと祈るばかりです。
 キリスト教会の中には、1948年のイスラエルの建国とその後の行方と終末を結びつけ、再臨を強調する神学と群れがあります。その一つが「ディスペンセーション主義」です。ディスペンセーションとは「時期」を指しますが、歴史を通しての神の人類に対する取り扱いを一般的には次の7つに区分します。①無垢の時代(エデン)②良心の時代(エデン追放からノアの大洪水まで ③人間統治の時代(ノア以後の世界)④約束の時代(族長時代)⑤律法の時代(出エジプトから旧約の時代)⑥恵みの時代(キリストから掲挙まで)⑦御国の時代(千年王国)
 とりわけ、掲挙と千年王国の理解が特徴的です。第一テサロニケ4:16-17に出てくるのが掲挙です。キリストの再臨とともに信者が天に上げられることです。黙示録の20章に出てくるのが千年王国です。ディスペンセーション主義ではキリスト者が掲挙され、千年王国が来る。それは患難期で、イスラエル人が悔い改めて救われ、その後に終末が来ると考えます。ですから、イスラエルが集められることは救いの完成に向かう大切なプロセスであると考えているのです。結果、イスラエルにこだわります。
 しかし、聖書の中で救いは「ユダヤ人もなく、ギリシャ人もなく」です。主イエス・キリストの救いは国家も民族も超える神の救いです。終末を過度に強調すると、今がおろそかになります。いや、今に希望が持てない時代ほど終末が強調されます。終末には神の救いの完成という希望を見つめつつ、今を大切に生きることこそ大切にしたいものです。