「すべての基である造り主なる神」使徒17:16-34

 マケドニヤからアカヤのアテネに来たパウロは町が偶像でいっぱいなのを見て心に憤りを感じます。アテネは豊かなローマ社会がもたらした学問の町です。日柄、目新しいことを聞いたり話したりすることだけで過ごしている人がいました。紀元前300-400年頃にはソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者も輩出しました。一方、人間は不思議なものです。最高の知性と最高の倫理が、最高の仕事と最低の家庭が、最高の技術と神頼みとが同居するのです。アテネの町もそんな町の一つでした。

 そこでパウロはエピクロス派とストア派の哲学者たちと論じます。エピクロス派の人たちは、現代流に言えば「努力する人生は報われる」と教え、ストア派の人たちは「人生、運命だ。天命を知り、それを生きよ」と教えました。同時にこの町には偶像がいっぱいで、「知られない神に」などと書いた像まであったのです。

 バベルの塔のような「八紘一宇の塔」が宮崎にあります。国体を偶像にして、国をまとめようとしたシンボルです。それが払った犠牲は大きな痛みです。現代の偶像の一つは技術です。便利なものですが、「思い通りに動かしたい」という心の現れと紙一重です。過信し、慣れっこになると人間が壊れていきます。そればかりではなく、どんなところにも「思い通り」という罪から来る偶像を人は生み出します。

 パウロはその町で「生ける真の天地の主」について語るのです。いくら哲学を論じてみても、どんなに素晴らしい技術を手に入れても、人が築くのは自分の偶像です。神から離れた人間は真のいのちを生きることはできません。神に立ち返り、悔い改めて新しいいのちを生きよと私たちも招かれています。