「すべてはこの時のため」創世記45:1-15

 私たちはイソップ童話の「アリとキリギリス」のように、努力を美徳とする世界に生きています。一方で、残念ながら努力が報われないこともままあり、頑張り過ぎて心と体を壊してしまうこともあります。そのギリギリの淵に立っている人もいることでしょう。
 「あなたを決して捨てない」と主のお約束をいただいたはずのヤコブの家族にも理不尽なことが起こります。叔父のラバンに騙され、家族はてんでバラバラ、ヤコブは息子たちの起こす事件を治めきれませんし、正しく導くこともできない。家族をまとめきれずにいるのです。追い打ちをかけるように兄弟が兄弟を売るという前代未聞の事件が起こります。しかも息子たちには嘘をつかれ欺かれます。彼は一生懸命でした。努力を続けてきたのです。でも、起こる出来事は彼が願ったこととは別の方向にことが進んできたのです。
 奴隷として売られたヨセフもそうです。奴隷だからといって腐ることもなく一生懸命仕えます。ところが、それが報われないのです。あらぬ誤解をされ、あるいは評価をされずに忘れられてしまう。しかし、彼には転機が訪れ、エジプトの支配者に抜擢されます。努力は必ずいつか報いられる日がくるというサクセス・ストーリーを語っているのでしょうか。
 いいえ。彼はここで兄弟たちとの再会を果たし言うのです。「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(8)。神から離れたならば、努力も頑張りも、その意味を見つけることはできません。そして、苦労を重ねた成功は、自分の栄光のために使うようになるのが人の常です。誰が見ていなくても、真の神は覚えていてくださる。その神が私たちの思いを超えて、よき計画を持っておられる。だから、「置かれた場所で咲く」のです。そして、「すべてのことはこの時のため」と感謝をする日を用意しておられるのです。あなたの労苦も主はすべて覚えておられるのです。