「みことばか感情か」使徒17:1-15

 パウロたちは、ピリピからテサロニケへ場所を移して伝道を続けます。そこではユダヤ人の会堂で聖書に基づいて語ります。安息日の礼拝に続いて彼は人々と論じるのです。彼らのうちの幾人かは「よくわかった」とあります。このことばは「説得する、信頼する。従う」と訳されることばです。

 パウロが語ったのは、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないこと」、そして「イエスがキリストである」ことでした。それを彼らは聖書のみことばを通して理解し、納得して信じたのです。ベレヤの人たちはさらに語る内容を確かめるために毎日聖書を調べたとあります。彼らの信仰の土台は、神のことばである聖書に基づいたものでした。

 一方でパウロたちは激しい迫害を受けます。何故の迫害でしょうか。ねたみのためです。教えの内容についてではないのです。何を信じているのか、教えているのかという中身が問題なのではなく、いままでのあり方を否定されたり、生き方を変えさせられたり、影響されたりということへの感情的な拒否反応なのです。

 しかしそれは考えてみると周りだけではありません。私たちの心にも罪ゆえに変わること、変えられることへの拒否反応があるのではないでしょうか。それを乗り越えてみことばに聞き従うということは容易なことではありません。しかし、「聖書に基づいて、聖書を調べて」、神のみことばに生きることこそ私たちの力なのです。

 みことばを読み、聞き、学び、考え、実行する。それを繰り返していく中に、感情に振り回される毎日ではなく、神のみことばを信じる信仰によって生きる喜びを築きあげるようにと導かれているのです。