「イエスの権威」マルコ1:21-28

 カペナウムの会堂でイエスが教え始められると、人々は驚きました。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたから」です。彼らは律法に加えて、口伝のミシュナーやその解説であるタルムード、高名なラビのことばなどを引用しました。ところが、イエスは「私は言います」と教えられたからです。

 しかし、人々はイエスが誰なのか、わかりません。しばしばイエスはご自身のことを隠します。神学者たちはこれを「メシヤの秘密」と呼びます。人々の期待は、ダビデ王の再来であるメシヤです。このローマの圧政から救い出し、自由と繁栄の国を取り戻すことです。力あるリーダー、人々にパンを与え、病をいやし、悪霊を追い出す。目先の解決、目の前の必要が与えられると人はそれしか求めなくなります。永遠のことなど吹き飛んでしまうのです。だから、イエスはご自身のことを隠されるのです。しかし、汚れた霊は一発でわかり、恐れて叫びました。

 イエスの権威、それは、十字架と復活をして罪と死に打ち勝ってこそはっきりします。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)と言われるそのとき、すべてが氷解したのです。

 そして、この力強い宣言は、私たちを勇気づけます。このお方の権威のもとに「私」はここに置かれている。私たちの日常は人の目を気にし、人の評価を気にし、「私は」と立つことに悩みを覚えます。しかし、イエスの権威の御前に何を恐れるのでしょう。人の目を気にしては不平不満の日を送る必要がありましょうか。さぁ、「私は」と立ち上がろうではありませんか。一切の権威をお持ちのお方があなたを立たせてくださるのですから。