「キリストの目撃者」2ペテロ1:16-18

 人はことを「見たいようにしか見ず」、「都合のよいように聞く」という習性ががあります。それがゆえに尊い神の教えをねじ曲げ、作り話を付け足し「うまく考え出した作り話」にしてしまうことがあります。なぜでしょうか。

 それは、人の「欲」あるいは「腹」です。この手紙を書いているペテロ自身がもそれを経験しました。ガラテヤ2章ではそれをパウロに責められています。異邦人伝道の先駆けであったはずのペテロが異邦人から身を引いて、ユダヤ人の習慣を強いるようなことをしたです。それは割礼派のユダヤ人への恐れでした。小さなことがいつの間にかその波に飲まれて、教えの変容が起こるのです。

 ペテロがここで強調して読者に伝えようとしているのは、「私たちの主イエス・キリストの力と来臨」です。ペテロが目撃者として語るのは、イエスの変貌と呼ばれる出来事です。ペテロは神の栄光をかいま見ました。けれど、それは奥義であり、秘められたことでした。それを見ていながら、易々とイエスを裏切ったのです。しかし、イエスのよみがえりがすべてを変えました。いままで見たこと聞いたことのすべてに光が当てられました。それは、イエスが真の神の子キリスト、力ある神であられるということです。すべての理解を新しくし、根底からその信仰を生きたものに造り変えたのです。

 その光に当ててみると、この変貌の出来事は新しい意味を持つものに変わりました。来臨の迫りです。そして、その目的は私たちが新しい人に造り変えられることです。ここに主がおられる。その恵みと恐れをもって神の御前にふさわしい生き方を今、ここにささげているのか。自分の都合でねじ曲げてはいないか。日々問いかけようではありませんか。