「キリスト者のしるし」ヨハネ13:34-35

 教会の歴史の中には様々なムーブメントの波がありました。これこそ真の教会のあり方だと言われたもの、流行廃りもありました。私たちはむしろ圧倒的な神の力の表れであるリバイバルを求めます。それが与えられるのは、何があっても、へりくだって忠実にあろうとする信仰者たちのところ。そして、いつでも私たちキリスト者の真のしるしであり証となるのは、このイエス様の教えにある互いの愛です。
 イエス様がこの教えを語られたのは、十字架の直前、過越の食事の席で弟子たちの足を洗われた後です。そして、それに続く教えではぶどうの木と枝のたとえ話をお話になります。「私が愛したように互いに愛し合う」、これが「私の弟子であることをすべての人が認める」証であり、また、キリストの枝として結ぶ実なのだとお教えになったのです。
 その愛の基準は「私があなたがたを愛したように」です。それが最もよくわかるのは1コリント13章の愛の章でしょう。愛の欠如は顔に表れます。白雪姫の悪母は鏡に向かって「世界で一番美しいのは誰」と問いかけますが、私たちは聖書のみことばを鏡に自らを問い、罪を悔い改め、愛の欠如を悟り、御霊の助けをいただいてキリストの愛を求めることこそが、私たちに求められていることなのです。
 その愛は、「ありがとう、ごめんなさい、ゆるします」という簡単な言葉で言えるでしょう。ありがとうの反対は当たり前、ごめんなさいの反対は、悪いのはあんた!、赦しますの反対は、怒って当然だ!でしょう。しょせん人間なんだからと言い訳してはなりません。私たちは尊い十字架の血潮で贖われた神の愛の器なのですから。
 一年、このみことばを掲げて歩みを始めます。コロナから日常に戻る中、教会がともに求めることにキリストの愛を互いに生きることを通して証をし、私も加わりたいと願う人の起こされることをともに祈っていきましょう。