きよい手をあげて祈ろう

「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」(1テモテ2:8)

 新年ほど誰もが祈るという言葉を使うことはないでしょう。キリスト者にとっての祈りの姿勢、生きる姿勢を問うのがこのみことばに勧められる祈りです。
 第一に「きよい手を上げて」それは、主の御前に聖められているかが問われます。旧約の民は幕屋の向こうにおられる主にお会いするためには祭司だけが、しかもいけにえの犠牲をもっての祈りでした。それが主イエス様の十字架と共に神殿の幕は裂け、誰もが「主イエスの御名によって」祈ることが許されました。手は私たちの行いの象徴です。きよい手とは罪過ちを悔い改め、へりくだって主の御前に出るきよさを問うています。
 第二に「怒ったりせず」それは、私たちの隣人への態度です。敵を愛し、迫害する者のためにも祈れと言われた主の御前に怒りはふさわしくないのです。許されたように赦し、愛されたように愛し、あわれみを受けたようにあわれむ心なくして、私たちは神の御前に祈る資格はありません。
 第三に、「言い争ったりせず」それは同じように、隣人に対して様々な違いを受け入れ乗り越えることが求められています。エルサレム教会会議ではユダヤ人と異邦人の救いに関する激しい議論の後、御霊による一致をいただきました。続くパウロとバルナバの反目は伝道戦略と人事に関わることです。あるいはローマ14章に出てくる考え方の違いです。それらはどのように解決したでしょうか。時間をかけた互いの理解と聖霊に導かれた一致です。キリストをかしらとして一つに集められた者が言い争ってはならないのです。
 どれもが私たちの罪。どれほどの過ちを犯してきたことでしょうか。新しい年、このみことばを心に刻み、思いと信仰を新たに、一年を共に歩んでまいりましょう。