「キリスト者の成長」2ペテロ3:16-18

 新しい天、新しい地を待ち望みながら地上を生きる者たち、そこにペテロは「無知な、心の定まらない人たちは…それらの手紙を曲解し」と言います。「曲解」とは「バランスを欠く、極端である」という意味です。

 きよめ派の教会ではきよめ体験、あるいは聖潔を強調します。それは18世紀のリバイバルに単を発します。この時代の前、キリスト教会の大きなムーブメントは15世紀の宗教改革です。ルターをして信仰義認が強調されました。かたちばかりのものになってしまった救いを新たにする神の恵みの再発見でした。しかし、それが時を経ると感謝が薄れるのです。「ありがとう」の反対は「当たり前」です。恵みの上にあぐらをかくようなものにすり替わってしまうのです。教会の歴史は振り子のように揺さぶられてきました。

 それはまた、外からのねじ曲げられることもあります。戦時中、再臨信仰は国体を否定する治安維持法に問われ、ホーリネス教会の弾圧が起こりました。それは国からのものだけではなく、宗教団体法によって一つにされた日本基督教団からも起こりました。

 ペテロはそのような信仰者たちに、「恵みと知識において成長しなさい」と奨めます。「恵み」とは「受けるに値しない者に一方的に与えられるもの」です。恵みを恵みとして受けた者の成長のしるしとは、謙遜さとそれからくる正直さではないでしょうか。恵みを恵みとしていただくためには、自らの中には何もよいものがないことを認めることです。そして、真の知識。教えられて理解し、経験して実感し、振り返って神に感謝をささげるのです。そのように導かれるなら正直になります。素直に「ありがとう、ごめんんさい、ゆるします」と生きることができます。なんと幸いなことではありませんか。