イエスが故郷のナザレの会堂で教え始めると人々はつまづきます。そのことばと権威に驚くのです。「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」と。正規に教育を受け、そういう人物が徐々に教師として尊敬を集めるようになったとか、頭角を現すようになったか、そういうことではない。このナザレの町の一介の大工として過ごし、幼少期から青年期、この町で知らない人はいない。それが突如としてわざを行い始めたのです。
私たち人間のものの、頭脳明晰に、合理的判断によってことを決めることはごく稀です。たいていのことは心、感情で判断するものです。イエスは彼らに言われます。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」 納得いかないわけです。
そこに試されるのはホンモノの信仰をもっているのかどうかというチャレンジです。このナザレでの不信仰、それは誰にでも問われることです。この後、付き従っていた群衆も奇蹟のわざを見ているうちは熱心にというよりは、熱狂的だったわけですが、十字架の受難を語り始めると、イエスさまに「つまづき」去り始めるのです。
山上の説教の始まりは「心の貧しい者は幸いです。神の国はその人のものだから」(マタイ5:3)です。「心強く、自分を制し、努力によってことを成し遂げ、義と愛に生きていきます」などと誰も言うことはできません。それができない心貧しい罪人に過ぎませんという原点に常に立ち帰らなければならない弱い器に過ぎないのが私たちです。それが試されるときがあります。そのとき、つまづくのではなく、己の貧しさとともに十字架に向かうことこそ、私たちが求めるべきこと、そして、ただ、心から単純にイエスのことばを信じる信仰、それを求めましょう。