コリントの信仰者と教会には様々な問題がありました。私たちもそうですが、人はいつも目の前のことで精一杯になります。パウロはそれらを教えてきて、手紙の最後に「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。」(15:1)とそれが主イエスの贖罪としての十字架の死と復活にあることを確認し、信仰の土台とするのです。
そこには、最初のアダムと最後のアダム、血肉のからだと御霊のからだ、地からでたものと天からでたもの、朽ちるものと朽ちないものと対比させながら、キリストによって与えられたものが何であるかを教えています。先のものは限りあり、罪によって死ぬべきものなのです。「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に」(ローマ5:12)
とあるように、私たちは生まれながらに罪を持って生まれ、罪の連鎖の中に置かれ、また自分自身が罪を犯した罪人なのです。
その罪と死にキリストはよみがえりによって勝利した!新しく変えられたのです。イースターの朝、悲しみが喜びに変わり、沈んだ心は驚きと戸惑いを覚えながらも、絶望が希望に変えられました。もはや死は終わりではなく、新しいよみがえりへの入口に変わったからです。
私たちは今、天と地の狭間を生きていますが、そこにいつも「主のわざ」に励むべきことを教えられています。「主のわざ」とは十字架の愛のわざです。それはときに困難をともなうことですが、「みこころが天でおこなわれるように地でも行われますように」と主の祈りに教えられたように、自分の思いと行いから「主のわざ」に向かうとき、それは決して無駄ではない。すでに罪と死に勝利したキリストの愛だからです。これこそがキリスト者の希望なのです。