不信を乗り越える確かな希望

 「復活」ということばは希望に溢れています。もうダメだと思っていたこと、死して終わったものが再びいのちを取り戻す喜びだからです。しかし、人の死というものだけはどうにもならない。それが人の限りであることを誰しもが知っています。ですから、イエス様の復活は衝撃的なことでした。にわかに信じられるようなものではありませんでした。
 復活の朝、女たちが空の墓を見つけます。ペテロとヨハネが墓に走り、その日の夕方までに弟子たちは再び集まります。それは、御使いの知らせ、女たちに現れたイエス様、それはどういうことかと集まったのでしょう。そして、そこにイエス様はお現れになりました。ところがそこにトマスだけいません。なぜトマスはいなかったのでしょう。彼の耳に入らなかったはずはありません。そして、他の弟子たちの証言にもかかわらず、彼は「見るまで信じない」と言い張るのです。
 疑いとは、理解しがたいということよりも、根本的に神を信じない人の罪の性質です。最初の罪もそうでした。神よりも蛇を、神よりも自分の判断が正しいとしたのです。疑う人は合理的に説明をつけようとします。弟子たちが集団で幻想を生み出した、イエスの弟子たちが遺体を盗んだ、イエスは気絶したか仮死状態にあったのだなどと説明をつける人たちもいます。トマスも死を乗り越えることなどあり得ない。たとえ誰が見たと言っても信じなかったのです。
 そのトマスに主は現れてくださいました。そして彼は「私の主、私の神」と呼びます。それはあなたこそ第一のお方ですという信仰の表明です。あなたにはできないことなどひとつもない全能の神ですという告白です。復活は私たちの信仰にとって希望の基です。罪と死の支配からの勝利のしるしであり、私たちも天に復活するという確かな確証です。「見ずに信じる者は幸いです。」トマスに語られた主のことばを心に留めましょう。