汚れときよめについて、イエスはパリサイ人、律法学者たちの形ばかりの偽善について糾弾しました。彼らは自分たちこそきよいという誇りのために周りを見下し、心頑なです。一方でイエスは群衆を呼び寄せて語ります。「聞いて、悟るようになりなさい。」心の耳を開いて聞くことが求められているのです。
そこに、イエスは「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません」と教えます。ユダヤ人にとっては様々な戒め、しきたり、慣習がありました。ペテロが異邦人に遣わされたとき(使徒10章)、きよくないものを食べるようにという幻を見ますが、躊躇します。その後も食べ物を巡って、異邦人とユダヤ人の交わりの障害が起こります。しかし主はすでにここで、すべてはきよいと教えられたのです。外側から汚す物はないからです。
それでは何が人を汚すのか。それは人の内側から出てくるものです。そのリストが並んでいますが、「ねたみ」を考えてみましょう。それは「悪い目」と訳されます。目は口ほどにものを言うと言われますが、目つきが悪くなるのです。澄んだ目ではななくなるのです。例えばダビデ王。彼はバテ・シェバの事件で、目が緩み、目が欲し、盗み、姦淫を犯し、人の目を欺き、殺し、その罪を自覚しない愚かさに陥ります。私たちも自分自身の目の向かう先、向かった先を吟味しなければなりません。徹底して、自らの内側から出てくる罪、これが自分自身を汚しているではありませんか。
一方、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)のみことばは私たちの慰めです。自分ではどうしようもないこの内側に住み着く罪。それは主イエスの十字架によって赦されているのです。そして、いのちの御霊が住んでくださるのです。自らの罪に心の場を空けてはなりません。主の御霊に導かれてきよい歩みをしようではありませんか。