山上の説教は6章に入ると、新しい区分が始まります。教えられているのは、施し、祈り、断食といういわゆる霊的生活、そして、お金、財産、時間という世の生活です。毎日の生活に密着してどのように生きるのかを問うのです。
ここで「善行」と訳されていることばは一般的には「義」と訳されます。5:20には「律法学者、パリサイ人の義にまさるものでないなら」と彼らのあり方を厳しく批判していますが、彼らの義はいわば行いによる義です。それは、彼らだけではありません。仏教で言う功徳を積む。そのために善行、布施。それらが御利益とを得る。それとなんら変わりありません。順序が逆です。主が求めておられるのは、恵みに対する応答であり献身です。
そこで問われるのが動機です。人に見せるために、人にほめられたくて、自分でラッパを吹いている。そうであってはならない。右の手のしていることが左手に知られないようにと主は言われます。この思いは私たちの心にも入り込んできます。証しになる生活と言いながら、微妙なかたちで入ってくるのは自らの栄誉を求める思いです。「数えてみよ我が栄光となりやすいのです。」人に感謝されないとき、評価されないときに不平不満をいだくことがあったら、それこそが証拠です。どうでしょうか。
一方、主は私たちに報いをくださると約束下さっています。だから、天での報いを仰ぎ見るように教えるのです。25:40には、『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』とあるように、誰が見ていなくても神は覚えてくださる。その報いを待ち望み、よき行いに励もうではありませんか。