「万物の終わりが近づきました」ということばは私たちに「心を整える」べきことを迫ります。一方で、私たちの心には「正常化への偏見」なるものが働きます。それは自分に都合のよい情報は大事にするが、都合の悪い情報を無視し、あるいは過小評価します。震災の後に語られるようになりました。いままでの津波では大丈夫だった。今回も大丈夫だろう。「津波てんでんこ」も死語になってしまう。終わりの日はどうでしょうか。
聖書の中には終わりの日が「近い」というよりはむしろ「今」であることは幾度となく語られています。イエス様は花婿を迎える十人の娘のたとえ、自分の財産を預けて旅にでる主人のたとえなどをお話になりました。そのような自覚と認識をもって生きることは私たちにとって大切なのです。そこに二つのこが命じられています。
第一に「祈りのために、心を整え身を慎む」ことです。罪との関わりを断ち、神のみこころのためにいきるべきことをペテロはすぐ前に命じました。それは主の祈りの中に出てきます。「私たちを試みあわせず、悪より救い出し給え。」それは、私たちが罪に打ち勝ち、聖さを求める祈り。ペテロがここで言うことと全く同じです。
第二に「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。」このことばはすでに1:22にもでてきました。そして、愛は多くの罪をおおうと言われます。ヨハネの8章には姦淫の現場から連れ出された女の話が出てきます。彼女は赦されます。人々は罪を暴くのですが、イエス様の愛は彼女を覆うのです。1コリント13章は愛の章です。そこに愛の姿を確認してみましょう。この愛があるのならば、どんな罪も覆われる。そうです。私たちは今、終わりのときにそのように生きるののです。