「償いを共に負う」ピレモン17-21

 パウロは、ピレモンのことを「彼は私の心そのものです」(12)また、「私を迎えるようにオネシモを迎えてください。」(17)と言います。それはパウロにも自分と重なる姿を見ているからでしょう。オネシモはピレモンに負債を負った普通に言えば、赦されざる者です。パウロも同じように赦されざる者でした。それはキリスト者の迫害者、しかも、その最右派に属する者だったのです。
 それが恵みによって赦された。ですから、「こんな私でさえ愛と恵みをいただいたのならば、どんな人にもこの恵みを伝えなければならない」という負債を負っています。赦されざる者が赦された、受け入れざる者が受け入れられた。その恵みに対する負債感は私たちの人との関係に現れます。それをパウロは今、ここで問うて「負債は私が負う」と言うのです。
 一方、パウロは「あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。」(19)と言います。そう言い合える間柄というのは、よっぽど深い信頼で結ばれていなければ、ただの嫌みです。また、15節には「オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは…」ということばが出てきます。オネシモが離れたのではなく、離された。それは、神の摂理と配慮、その導きの中にこれらのことが起こったという理解です。ヨセフ物語と同じです。人は悪を計っても、神はすべてをよきことの計らいと変えてくださる。それは、赦し赦される恵みの負債に応える生き方なのです。
 パウロにとっては口先だけの赦しではない、互いの間に、払う犠牲と愛、それによって重荷と負債を負い合うという交わりがキリストの体としてふさわしい。それを確信して、ピレモンに願っています。「 私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまで、あなたはしてくださると、分かっています。」そのような交わりが私たちの間にも表されるようにともにささげようではありませんか。