「元の木阿弥にならないために」2ペテロ2:17-22

 「犬は自分の吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」というたとえ、日本のことわざならば、「元の木阿弥」というところでしょうか。木阿弥というのは、戦国時代の大名、筒井順昭が死んだとき、まだ、幼い息子を立てられず、それを隠すために木阿弥という僧を殿の代役に立てたが、息子の成長ととおもに用済みになって元の木阿弥に戻ったという謂われがあります。

 しかし、私たちは犬でも豚でもない、降って湧いたように殿にされた木阿弥でもない。十字架の贖いの代価を払って恵みにあずかった者です。1:17-18で学びました。「あなたがたが贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」これをしっかりと握りしめるのです。

 一方、元に戻ってしまうような力が私たちには強く働きます。それは欲、貪欲です。13節では「理性のない動物」のようだ言います。私たちのいのちは三位一体の神のかたちに造られ、自由と愛の素晴らしい交わりの中に生きていました。しかし、堕落の途端のその自由は失われてしまいました。その巧妙な誘いは「神のようになる」。どんなことにも妨げられることなく自由だという誘い。しかしそれは、自由という名の奴隷、罪の奴隷でした。どうせ、しょせん、やっぱり。そして、思い通りにという声が聞こえてきます。

 「古いアダムは泳ぎが得意なのです。」私たちは古い人をバプテスマとともに捨てたはずです、どっこい、その声は強く、また巧妙に私たちを誘います。どのようにそれに打ち勝つことができるでしょうか。1章では「あらゆる努力をして」と教えられています。それは十字架の主イエスの恵みかをしっかり握りしめるというただ一点だけなのです。