この箇所は少々難しい用語が続いていますが、コロサイ書の核心をなす部分です。先に、「キリストに満たされている」と語ったパウロは、キリストが何をしてくださったのかを教えているのです。
「背きと肉の割礼がなく死んだ者であったあなたがた」とコロサイの人たちとのことを呼ぶのは、彼らが異邦人だからです。ユダヤ人は肉の割礼を受け、神の選びのゆえに律法を与えられた民です。律法は神の基準ですがそれを守れないのが人。ですから、幕屋での礼拝、悔い改めとセットでした。ところがユダヤ人は律法を守ること、それもしたかしないか。行為を守ろうとしました。パウロはここで「私たちの背き」と言い換え、異邦人もユダヤ人もみな背きの中にあったのがキリストによって赦されたと教えるのです。
守れない律法、異邦人にとっては心に書き付けられた良心という律法、それは罪の負債であり債務証書です。キリストはその律法を成就し、なおも、その負債を抱えた人のために、十字架でいのちの代価をもって、それを払った!それが十字架に釘付けにしたということの意味です。
そして勝利の凱旋をなさいました。そこには捕虜、つまり私たちを苦しめていた罪も誘惑も権威も支配もさらしものにして、武装解除、恐れはいらないと示したのです。今も世の権威、また目に見えないサタンの誘いと力が働いています。ときに迫害、誘惑、投獄、脅し…さまざまなもので私たちに迫ってきます。しかしキリストはよみがえりを通して、すべてに勝利しました。
これがキリストがなしてくださった救いです。すべてのことがこの十字架と復活の勝利にかかっています。そして、人が負いきれない罪の負債も、すべてのものに勝利してくださった。だから、私たちに恐れるものなど一つもないのです。