「完全なんてムリ、ムリ。だって、人間だもん。所詮、しょうがない。」私たちはそう思います。完全を求められても、私たちは言い訳をします。罪の思いは「思い通り」。そのため「いそぎ、いばり、いじけ」ます。イエス様の誕生のとき、シメオンは「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです」と預言しました。思いの深くを問い、そして、もう一度立ち上がることを求められているのです。
山上の説教、そこでイエスが問うたのは、いままで人々が言い古してきた教えです。それは神の基準である律法を自分たちの罪の言い訳のためにねじ曲げ、くぐり抜けるようなあり方です。それに対してイエスはここで一つ一つ、その教えの本来の意味、神のみこころを教えてこられたのです。それをまとめることば。それが「天あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」という求めです。
「キリスト者の完全」を著したウエスレーは「全くきよめられた者は罪を犯さなくなる」と言います。一方で「誰も過ちからは逃れることができない」とも言います。恵みにあぐらをかいて、何でも赦されるのだから、そのままでいいと言うのも誤り。聖さを求めて努力だけというのも律法主義への逆戻り。ただ、従うことが求められているのです。
先週、一人の信仰者が召されました。「すべての聖徒たちのうちで一番小さい私。」それが遺言でした。こんな者を主は選び、ただ十字架の恵みによって救いをくださった。ならば、この身を明け渡し、やがて、天で完全にされる望みを仰ぎ見、一方、地にあっては天の父から目を離さないで、一歩でも主に似る者へ造り変えてくださいと祈り生きる。主の御前に完全を目指して歩みましょう。