一つの病、一つの事故、一つの死

 先週は、一つの病の報せ、事故の報せ、死の報せを受け取りました。

 病は米国にいる友人のお嬢さん。二十歳にしてガンがリンパ節に転移していることがわかった、祈って欲しいという報せでした。ごくごく親しい友人というわけではありませんが、大事なことを分かちあって祈り合う友人です。これから人生の本番を迎える将来のある若い姉妹。突然、自分のからだに起こった異変、しかも、それは治療困難な病。

 事故は突然。私のときもそうでした。できれば時間を巻き戻したい。わずか時間がズレていれば大丈夫だったのに。ちょっとした不注意が、わき見が・・・。相手に怪我をさせてしまった申し訳なさ、大事ではないだろうかという不安。その後のやりとりの煩雑さ。降ってわいたことに戸惑います。

 死は逆戻りができません。日本で、インドで、アジアで世界で用いられた牧師の死でした。世界で用いられた器とて、弱い体をもった器。ひとりの人の負えることには限りがあり、また、からだは衰えます。晩年は半年ほど寝たきりであったと聞きました。そのときがやってくるとはわかっていても、死は突然です。さっきまで息をしていたのに、ことばを交わしたばかりなのに、握りしめた手に握り替えした確かな手応えも今はない。もう、ここにはいない。

 私たちに明日はわかりません。突然の病、事故、死。備えができるかといえば、でできないことがほとんどです。そこで、問われることはわずか。「あなたにとって一番大切なことは何ですか」という問いです。これさえ身につけているならば恐れるものなど一つもないという確信。それは私が神のものだという確信ではないでしょうか。生きていても死んで後も、神のもとにある平安。それをしっかりと握りしめたいと思うのです。