「宣教の主のみこころによって」使徒18:12-21

 コリントの町でパウロはユダヤ人に迫害され、地方総督ガリオの前に訴えられます。彼らが委ねられていたのは礼拝の民として生きることで、その中心は「献げること」です。いけにえを通して献げることに招かれていましたが、彼らは次第に偶像礼拝をするようになります。偶像礼拝の本質は「思い通りにする」罪です。自分の願望や欲望の表れです。

 使徒の働きは、そのような罪の世界に、聖霊によって用いられた人たちが救いを知らせた記録です。それは同時に迫害の記録ですが、一方で新しい目を開かせる時となりました。最初の使徒たちは宮で礼拝をささげていましたが、迫害によって宮にいられなくなります。さらにステパノの迫害からはエルサレムにすらいられない状況が起こりました。しかし、それは異邦人伝道へと、また、ユダヤ人の主だけではない、全世界の主、全世界の救いへと開かれていったのです。

 困難はつきものでしたが、コリントの町でガリオの裁決は半ばキリスト教のローマ国内での公認化を意味しました。ローマの行政・法律は関知しないと言い切ったのです。同行者テモテにパウロは後に「時がよくても悪くても」と励ましを送りました。私たちはどうでしょう。よい時でしょうか。悪いときでしょうか。

 大切なことは、どんな時であってもこの世界のただ一つの救いを伝え続けることです。ローマの8章では、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」とパウロは語りました。神の愛がすべてのことの上にあって、私たちを支え用いてくださるのです。

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