パウロはキリスト者のアイデンティティー、その存在について語った後、私たちの贖い主である御子とはどのようなお方なのか、その告白を語ります。イエスは「主は救い」を指す固有名詞、キリストは救い主、油注がれた者、メシヤを指す称号、人の子は人としてのイエスを表すときに、そして御子は神としてのイエス、その神性を表すときに使われます。
この手紙の書かれた時代、それは実在のイエス、人としてのイエスを直接見た人たち、あるいは、それを間接的に聞いたにせよ、人としてのイエスを知っています。それが神であり、御子であるということを理解することは簡単ではありませんでした。ユダヤ人にとっては唯一の神のみ、異邦人にとっては様々な神々の中で人であり神であられるイエスです。それをパウロはここで、語ります。この箇所は20節まで詩の形式で、御子は御子はと語ります。
まず「御子は、見えない神のかたちであり」ということばが出てきます。神のかたち(像)とは、三位一体の神です。御父、御子、御霊の三位格、それぞれが「自ずから考え、自ずから決断し、自ずから行動する主体」でありながら、愛によって一つに結ばれた神。イエスご自身が「私と父とは一つ」ですと言われた。その神ご自身であられるのです。
続いて、15節の後半、「御子は・・・すべての造られたものより先に生まれた方です。」と書かれています。少し不思議な表現です。それは、造られたものではないということ、「生まれた」という表現はこの天地の始められたことを意味します。そして、それに続いて、天地の万物が御子によって造られ、御子のために、それは、三位一体の神の素晴らしい愛と一致を喜び、栄光を表すために存在するのだという、いわば世界の目的について教えます。暗闇の力に覆われる前、神の創造の本来の姿と御子について教えるところの素晴らしさ、主のご栄光を仰ぎ見て、心新たにいたしましょう。