生きる喜びか競う喜びか

 もうしばらくの間、登っていない。記録を見たらもう4年登っていない。でも、いまだにクライマーだと思っている私は、オリンピックを見て葛藤を覚えます。30数年前、クライマーは自然の岩場に行くしか登る術がありませんでした。初めて登ったのは昇仙峡。これまた初めて出会ったMさん、今から行くぞと連れて行ってもらった昇仙峡。スルスルと岩場の上にロープをかけると、今度は、「おまえ、やってみろよ」と恐る恐る登ったのが始まり。休みの日が待ち遠しかったのです。
 そして、「人工壁」と呼ばれるものが入ってきました。そして数年後、仲間の一人が倉庫を借りてジムを始めました。仲間からお金を集めて運営しているという体でした。雨でも夜でも登れるのが嬉しくて通ったものです。まだ狭い世界、どこかに行けば必ず知り合いに会う程度だったのが、少しずつ拡がり、とうとうオリンピック種目にまでなったか!という感慨もあるのですが、一方でちょっとばかりの葛藤があるのです。
 クライミングはもともと冒険的要素があって、どう登ったのかというスタイルにこだわるものです。体を鍛え、技を磨き、心を整える。そして、困難を克服して登り切ることが喜びなのです。ところが、純粋な競技スポーツになると登り切る喜びではなく、競り勝つ喜びに変わる。もともと比べないスポーツだからこそ好きだった者からすると、そのパラダイム変換にちょっとばかりついて行けない部分があるのです。
 それは私たちの人生にも言えることでしょう。神さまの御前に与えられたことを喜んで生きるのか、あるいは人との比較の中に生きるのか。勝ち負けにこだわり、優位を覚ることを求めるのか、劣等感を覚えるのか。ソロキャンプの流行などは、その反動かもしれません。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43:4)と言ってくださる神の御前に安心して生きたいものです。